12月24日(火)クリスマスの日かな?

★今朝も寒い朝、昨日、岡山の会議から、遅く帰ってきて、朝、少しねホセ宇しました、今日はもう、24日ですか、クリスマスなどあまり縁がない暮らしできましたから、なじめないですが、同じ敷地内の別家の孫夫婦が、暖かい首巻・靴下など「プレゼント」として購入してくれました。ありがたいことです、新婚のなせる業かも、孫も結婚前は、プレゼントなどなかったと思える、どちらかというと、こちらが「やる」ほうが多かったのではないかな。。。

昨日の夜は、岡山で「福祉・介護施設」に関する、虐待の損害賠償裁判の相談でした

★久米にあります、老人福祉・介護施設の内部での「不適切介護・虐待」などにより、命を奪われた利用者家族の人たちが、数人で「その責任を問う」裁判を起こしました。前々からかなり慎重に「準備」してきまして、資料なども風呂得ての訴訟への踏切です。

★昨日の午後6時から、岡山の弁護士会館で、8人の弁護団と原告家族数人と、支援する人たち数人で、これからの活動の相談でした。

★2月に第一階口頭弁論が開かれることが決まりまして、其の対策などでした。また、子細は、報告しますね。★

美作水平社創立100年記念史誌の最後の編纂へ

★遅れています編集祖業ですが、最後の大詰めというところです、沢山あります資料の中から、何を使うか、どの写真を乗せるかなど中々大変です、間違いなくたくさんの資料と写真です、が、この問題という思いの資料が寄らない、2つほどの「記事がこない」ということは、また、別の意味で大変です。

★いわば、ありすぎて困るという現象と、無くて困る、何とか「ほしい記事と写真」と思っても、その課題については、無い、ゼロなんですよね、どうするか、そのことを知っている人に問い合わせをして、メモでも書いて乗せるか、とか、率直に言いまして、私が知っている事柄を「簡単に紹介記事」にするか、最後の土壇場に来て、中々作業が決まりません、今年度中に仕上げたいとは思いますが。

★今回の記念史誌とは直接は関係ありませんが、下記の出来事、本当は、70周年記念誌の中にでも書いておくべきことと思いますが、さすが、私、個人の思い出の記のような火事ですから、書かなかったとおもいますが・・今、読み返しても、中々の内容ではないかな、相変わらず「誤字や脱字、変換ミス」はありますが、うまく、呼び出せましたら、下の部部をクイックしてみてください。

  1. 1981年–1984年 差別確認会・糾弾会は拷問です!、結局、あなたがたの思うとおりにしてしまう

★こんなことを書いたメモもあるんですよね、、、実に「面白い・・・」いかめしい肩書きの名刺配りのお話

★20数年(2015年~見てです)になるのでしょうか、全くの普通の仕事をしていた、活動経験も無い若者が「営農相談員」として、全解連の専従になりました。お勤めの初日、あいさつ回りに連れて行くからの言葉、名刺を印刷して渡してくれたそうです。本人は、てっきり地域、支部などへ挨拶をと考えたようでしたが。


①市町村の役場周りをしました→

部長室や町長室へ丁寧に迎えられて、お茶をごちそうになり、先輩がご機嫌よろしく「内の若い者です、全解連は若いのがおろう、頼むで・・・」と紹介し、後は、雑談です・、何か少しだけ、相手が気配りしすぎ、こちらは、やや、ふんぞり返り気味、?、と思ったそうです。


②奥の院に入り、名刺を交換して・・・・、→

「いんぎん無礼」とはこのこと、くそ丁寧に町長が、部長が、課長が、頭をさげて「名刺の交換」わしてくれました、が、・・・。部落解放運動連合会・・・の肩書きのある名刺です。昨日までは、普通の人間、役場に行っても、何一つ頭を下げられたことはないのに・・・・・部落解放という「名前」だけで・・・・役場の奥の院では、こんなことは茶番劇なのか?・・・、日常的なできごとなのか・・・?・


③それでも、別の運動団体よりはは良い→

★全解連の方が気を使わない、気が楽、との話も聞きました、これは何なら、この人らは変なことをしている、自己満足だけ、おかしい、無茶に腹が立ってきたそうですが・・・。行政周りが終わって、翌日も、その翌日も、いつまでたっても。支部には、地域には紹介がありませんでした、1ヵ月後の支部長会議なる会議で紹介をされました・・・・。


④ある先輩に「なにっ」と聞きました。→

★「わしらの運動はすごかろう・・・、ここまでなるのに60年、苦労があったんで、昔はナぁー」と話を聞かされました、そんな話をするときの先輩は、とても輝いて、元気で、熱心で、生き生きとしていました。


⑤もう一人、津山の委員長に聞きました→

★津山の委員長に「これって、おかしんじぁーないん」と胸の内を語りました。特に、印象に残る言葉をいったわけではありませんが、全国闘争となずけて、行政まわりをして補助金を受け取っていただけの運動から、支部や市町村協議会での学習会が生まれました。行政まわりをやめて「対話懇談会」をおこない、美作地域31の自治体で多くの住民団体との「自由な話し合い」のテーブルが用意されました。昼間、街頭から宣伝カーで「運動に参加して、要求実現を、全国の兄弟姉妹よ」と訴えていたのをやめて、新しく、集会所で「支部の学集会、話し合い」のスタイルへ国民運動が変化していきました。


⑥たどり着いたのは→

★私は、津山の委員長と「名詞配りの仕事」を止めました。そして、行政や教育の関係者に「普通にあつかってほしい、ペコペコするな」と訴えてきました。そしきの内部では、町長室でのお茶が、あたり前、運動の勝ち取った成果だ、と思わないように心がけてきました。
部落解放要求貫徹全国闘争と言われていた時代から、部落問題の解決をめざす国民運動対話懇談会へと、運動の質が変化、発展していく前の印象深い歴史の事実です。

★この経験もすごい葛藤でした、「私たちだけがもらえるお金は嫌!


集会所からの「謝金」をやめたら運動が終わる・・・と先輩たちが教えてはくれました、が・・・、

 かなり悩んだ課題、皆が、特に若い人が、結論を出しました。


★「私らだけが特別にもらうお金があるかぎり「部落差別はなくならない、やっぱりと言われる行為を地区内からなくしたい」の声は大きくなっていきましたが、経験豊かな、同和特別対策を作らせるのに苦労をして成果として勝ち取った闘志のある人、先輩たちからは「せっかく私らが勝ち取った集会所のお金、もらわなくては・・・・、昔はなぁー個人の家で支部集会などをしていた、それを改善させるために自分らが運動して勝ち取ったもの・・・、講師の謝金としてお金も出るようになったで、とさとされました。


★末永くんらは、それを止めようと言うからおかしい、支部では運動ができなくなる、じゃけん末永くんは嫌われる、強引で大衆の気持ちがわかっていない」式の反論、反対の声に随分泣かされました。


★時には、岡山~津山間の列車の中で「末永の悪口と津山市協議会の運動、やり方の批判」を、「古い活動家」から言われ続けた女性部の幹部も現れました。しかし、その女性部幹部は「特別のお金はもらわない方針」にあくまで賛同でした。地域では、若いPTAの人たちが「私らの子どもだけがお金をもらう制度は嫌だ」と頑張りました、解放同盟の影響だけでなく、人間誰でもが「お金になるなら」の考えがある中、大変な葛藤のなかでした・・・・、特別措置法制定下でしたが、18館の内14館が「謝金など完全に断り、自主運営」にかえました。

★問題は、こうした、津山市の運動の在り方を、どのように、記念史誌に書きどうするか、乗せるのか、載せないのか、今、大いに迷っているところですね・・

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