月別アーカイブ: 8月 2013

福島・原発事故、廃墟の町・・・・こんな無茶なことを・・・

★視察三日目は、原発事故その後の対策は、・・・・をテーマにしたつもりでしたが、無理でした、現地は、その後ではありません、あの日のまんまでした、ひどいことです、・・・何で、安倍のおじさんたち、原発の再稼働なんだよ、何で原発の輸出なんだよ・・・・無茶な日本です、このままで良いのでしょうかね…。

いわき市の伊藤達也さんに1日ご案内をしていただきました。伊藤さんは、原発問題住民運動全国連絡センター筆答代表委員・福島浜通り医療生活協同組合理事長・たくさんの「共同作業所」の役員、責任者、そして、10年前まで、県会議員をされていた人です。

27日の午後の訪問地は、楢葉町の竜田駅と富岡町の駅でした。2011年3月11日のまま、2年半まえから全く時間が止まったまま、壮大な景色、風景が広がっていました。まさに、地震、津波、原発事故で放射能汚染、「原発被害のひどさ」をまざまざと見せられました。

竜田駅まえ、駅舎は残っていました。しかし、廃墟の町でした、楢葉町です、2年間で、各家は、ねずみ・へび、みみず、など小動物のすみかへ…・原発マネーでたてられたトイレが異常に綺麗でした…。

除染の作業員以外は、一人の姿もありません、しかし、学校の校庭です、「もうすぐかえれる地域になりますよ」と、草ぼうぼうの地域を、綺麗に刈り取り、見違えるようにした、校庭です。人間の背丈をこえる草が生えていた工程です。時々、私たちと同様見に「視察」でしょうか。何かの調査でしょうか、人の姿が見えました。

ここから下は富岡町・富岡駅の様子です

富岡駅と駅前商店街、あるお店の時計、2時46分ですか、47分ですか、時間を刻んだまま、壊れて止まって、そのまま、危険区域へ、家に帰られません・・・・

★地震、だけなら、もう、復興しているとおもいます、そして、津波の被害、それでも、2年と半年、何とか、人が暮らせるようにはなっていると思います。しかし、原発事故・放射能漏れ、そして、汚染・帰還困難区域指定、居住制限区域への指定・・・・1年か2年したら「帰還できる」という国の言い分・・・・・しかし、放射能測定器は、1、5~2へ、そして、4、5~5、へ、6へとマイクロシーベルトの数値があがります・・・・帰れない、帰りたいが、帰れないのである、除染した、と言うが、無理、除染した翌日には、又、数値が上がります、・・・・・・・・現地は、3月11日午後2時46分のまんま、何一つ動かないのである。そこへ、12日、原発事故が起こったんだよ。。。。

ここまでの写真は、竜田駅と富岡駅のものが前後しています。そして、これらの写真が1番最後に見た地域のものです。

★ここからは「危険区域」で入れません、道路が続きますが、車も人も通れません、その周りを伊藤さんのご案内で、ぐるりと回りました。

★この右側の赤色のレンガからが、立ち入り禁止区域、私らが「禁止区域に侵入するのではないか」の思いでしょうか、消防と警察が、かなり、後になり、前になり走っていました。そして、この道路を隔てて、補償が満額と六割にわかれる、そんか「分断の道路」でもあります。

★上の写真が、27日の最後の写真です、桜並木通りだそうです、政府と東電は、今年のさくら満開の時「1時帰宅」をゆるした、もくろみとしては「沢山の住民が帰宅して、桜を見て、花見でもする」と思ったそうですが、誰ひとり、花見などする人はいない、そんな実態ではない、住民自らが「示した行動」だったようです。

ここから、正式に、27日の行動の順番になります。廃墟の町、ゴーストタウンを見ていただきたくて、最後の訪問地を最初の画面構成にしました。

★27日は、伊藤達也さんのご案内で、いわき市の北部、旧緊急時避難準備区域、そして、警戒区域の楢葉町から富岡町へ、帰還困難区域へと案内してもらいました。

★郡山から約2時間、いわき市へ、午前9時40分ころに、まず、伊藤達也さんの事務所に到着です。ここで、約、1時間程度レクチャーを受けました。左から3人目、黒っぽいシャツを着た人です。

★いわき市は、原発事故現場から60キロ圏内、そして、北部は、30キロ圏域内に入っています。

★広野町は、20キロから25キロ圏内、そして、楢葉町は、20キロ圏内、富岡町は警戒区域です、など、訪問する地域、町の基礎知識や現実を教えてもらいました。

放射能測定器、通常。自然界は0、04べしベルだそうです。伊藤さんの自宅・事務所付近は、0、3~0、4デシベルくらいでした。

いわき市人口約33万人、1万2千減だそうです。しかし、避難者が3万人はいると言われているようです。仮設住宅などに住む人に、住民の「嫌がらせ」が頻繁に行われているそうです。津波で流されたまま、手が出されなていない地域、そして、放射能汚染です。

この地域は、堤防が無かった、津波が直撃、私たちが見に行ったときは、堤防の工事が行われ、トラックの出入りが激しかった。

そして、広野町へ・・・・

東電の火力発電所もある町です、ただし、原発もふくめて、東京に電気はおくられており、福島県はゼロ、東北電力が電気の供給をしているわけです。

この広野町は、東電が、1997年に、130億円をつかって、サッカー練習場(11面のサッカー場・ホテルなど)を作って、「寄付」をしてくれた、「さすが東電」といわれたが、その後、伊藤さんが県議時代に、この費用は、必要経費(電気料金に与される)と言うことを明確にさせた。と、言う事態であったそうです。寄付ではなくて、電気代金に上乗せして費用が作られた。

火力発電所の煙突、すごく、異様な風景でした。広野町から楢葉町へ、放射能に汚染されて、除染作業、汚染された土壌などは「袋詰め」して、仮置き場へ、いたるところに積まれています、この袋は、津山圏域の「領家地内・ごみ処理施設建設現場」で、ヒ素の汚染された土壌の撤去で使われている袋と同じもの・・・・クリーンセンターが「袋が手に入らない」と嘆いていたのが、原因は、ここですね、、、言葉では言えない、本当に、すごい大量です、仮置き場から中間処理へ、最終処理方法な「見通しなし」です。どうするんでしょうか、安倍のおじさんたち、原発再稼働ごときに、うつつを抜かしている時ではありませんよ、・・・・どうしてくれるのか、この、放射能の汚染物の最終始末を。。。

この付近は、除染作業が沢山のところで行われていました。作業員の乗るバス・乗用車、パン、そして、汚染土壌を袋に入れるユンボなど、トラック・ダンプ、行きかう車と人は、それだけです。上記のサッカー場を紹介しましたが、広大なサッカー場が、「関係者の仮住まい、作業員、車両、すごい数です、このサッカー場を仮住まいとして、汚染処理の現場に大量の車と人をはこんでいますね、、、

お墓の除染は、ブラシで、一文字、一文字、除染するそうですから、気の遠くなるような作業が、永久に続くんでしょうね…・二度目の除染が必要な地域も沢山あるそうです。

放射能に直接汚染されて、避難、約9万人、帰宅者は、極僅か、帰宅可能地域になっても2割程度しか帰れない、空き家、ねずみやへびなど大量の「小動物のすみか」になっており、人が、帰ったり、住んだりできる時代ではない。。。。そして、

玄関に張られている「コラ、ドロボウ!!」との呼びかけ・・・・・何ともいえない「わびしさ」です、日本のというか、日本人と言うか、人のなり、文化の低さというか、思考力のひくさというか、ともかく、言葉なしでした。

富岡町は、避難指示解除準備地域に指定され、3年以内に帰宅可能にする、として、除染作業が進められていました。泊ることはできないが、日中の出入りは自由となり、私たちも出入りが出来ました。警戒区域は三つの区分だそうです。①避難指示解除ちいき、②居住制限地域(3年から5年で帰宅可能に)③帰宅困難地域(5年以内は帰宅できない)の地域、①は補償費の4割、②は6割、③は満額出す、との方針。道路、一つ隔てて、①になったり②とか③になったり、住民の「分断」の開始だそうです。

竜田駅へ、今日の画面の一番上に、紹介しています、高校生の当日の通学に使われた自転車がそのままの写真、そして、富岡駅へ、で、地震、津波で破壊された家屋、住宅の中へ自動車が入ったまま、などの風景へ続きます。

★放射能測定器、車の中でも、1、5です、そして、1、7から8~9です、2、0へいやいや4、0へ5ですと、上がりっぱなしです。長居は無用、車から出ないで、車に乗ったままで、グルグルと伊藤さんの案内で回りました。

視察二日目・宮古市で勉強です

★26日、視察二日目は、岩手県宮古市市議会へ、そして、総合企画・危機管理室の人から、3月11日、午後2時40分頃でしたか、その時の様子をお聞きし、その後の時間のながれ、津波の実態、写真、などで説明を受け、復旧への計画、震災から昨日までの「経過」なども教えてもらいました。宮古市は当時、本会議の「最終日」で議会中だったようです、津山も、そういえば、本会議中でした…。庁舎が「左右に揺れて、壊れる、命がおしまい」と思ったそうです、揺れが激しく、長く、もう、おしまいと誰もが思ったとか…たてものは、震度6には耐えられる構造であったとか、宮古付近は、震度5、9とか、助かった、と田中議員も、しみじみと申していました。

★ボランティアセンターを早く出まして、役所に行く前に、港にいってみました、建物は立て替えていましたが、後ろに見えます、ここまで津波が来た、というラインが見えます。

少し時間がありましたから、市役所近くでコーヒーのひと時です

議会事務局次長と事前の打ち合わせです。

庁舎内・二階分分まで浸水、立っているのは一階のロビーです。後ろの青い表示板が、推移を表しています。

宮古の観光地・ここは、綺麗に整備されていました。

★午後は、支援物資をもって、仮設住宅・二か所で、約40所帯を訪問、対話活動でした、

東日本大震災・津波被害のその後の研修

★8月25日(日)岩手県宮古市へ「大震災・津波」と言う前代未聞の被害をうけた地域、日本共産党の「地域割」の関係があって、岡山県が「支援の受け持ち地域」となっています、岩手県宮古地域へ、津山地域地方議員団で勉強に来ました。まず、初日の写真からお届けします。

宮古市の党議員団の団長・田中議員の案内、宮古の当時の様子などを聞きました。

復旧作業が進んでいるとは思えませんでした。

宮古市から山田町へ、車で約40分、田中市議(地区委員長)の運転でいきました。バックにうつるのは「仮設住宅の姿」です。

やまだ共同作業所に到着・沢山のスタッフに迎えられました。前の左、口髭のひとが、理事長であり、日本共産党の前町会議員の佐藤さんです。

佐藤さんから山田町の様子を詳しく聞きました。

お話を聞いて、あとで、佐藤さんと握手、日本共産党の町会議員として11期、27歳から頑張ってこられました人、27歳と11期・・・人事は思えませんですね。

作業所の入り口に、炭焼きの用意をスタッフ一同でしてくれていました。ホタテ貝・イカ・さんまの刺身、そして、炭火焼を沢山準備してくれまして、夕食とともに、美味しくいただきました、ありがとうございました。

カキとホタテが中心の漁業の町、カキとホタテが震災前は、4、100台の養殖、震災と津波で全滅したそうです、そして、復旧へ、今、2、200台が完成しているとのこと。。。業者の数は、290業者が、今、150業者数へ、山田町がさい帯゛の課題として追求する漁業関係でも、やっと、半分の復旧の感じです。

生活再建、住宅再建などは、ひどいです、災害復旧住宅は738戸建設計画を持っていますが、今、83戸建てただけ、あとは、土地が無いということもあり、見通しが立っていないそうです。大変な実態ですね。

8月17日(土)は「平和の灯」でした

★第10回、津山市民平和の灯が8月17日(土)美作原水協の主催で、津山中央会館と吉井川河川敷で行なわれました。灯篭流しが12回おこなわれ、灯に引き継がれた、津山の夏の風物詩です。

★河川敷に「原発さようなら」と「平和の灯」との文字表示を準備しまして、暗くなるのを待ちます。その時間に、中央会館で「平和のともしび集会・懇親会」の開会行事だけ行ないます。

児島事務局長の界会・司会ではじまりました。

下野会長のあいさつ、今の時期だから…平和の大切さ、

懇親会の「乾杯」は、据え置いて、再び、吉井川河川敷公園へ、「灯」に火が入ります。

うす暗くなり、灯篭に、ひとつ、ひとつ、灯がつけられ、灯が入ります、かなり時間がかかりますから、段々暗くなっていきます、ほぼ、最後の灯篭への灯つけの瞬間ですね。。。

★再び、中央かいかんへ、乾杯から、夕食「懇親会」へです。

日が完全に落ちますと、あたりは「真っ暗」です、平和の灯が河川敷にうかびあがり。橋を渡るひとたちが、しばし、足をとめて、綺麗、と眺めてくれます。

奈良の大文字送り火へ行きました

★お盆休み、孫の件雌雄レポートとでもいうのでしょうか、「夏休みの課題」である、「お寺訪問記」なるものの研修をふくめて、奈良へ8月15日~16日行ってきました。奈良の「大文字送り火」(大文字焼き)があることも、初めてしりまして、見学方々でもありました。

暑い日、焼けるような暑さの中、15日午後~、まず、「唐招提寺」からでした。

二つ目が「薬師寺」でした。

奈良には、五重塔・三重塔などが多くありますね。

斑鳩文化財センター・藤の木古墳展示室に始めていきました。古墳のレプリカの作り方、出土品の展示のあり方、中々、よく考えている感じでした。

8月7日→参議院選挙報告へ垣内京美来津

★毎日のように「夕立ち」のある8月7日、参議院選挙岡山選挙区で頑張りました、垣内京美さんが来津、津山駅前をはじめとして、4カ所から「参議院選挙勝利街頭報告」をおこないました。そして、夜は、末永区をちゅうしんとした、「垣内さんを囲む会」が、日上の「すえひろ亭」で行なわれ、30人が参加、久しぶりに勝ったと実感、良かった、良かった、と大いにもりあがりました。そして、参加者が、垣内さんに「月に一回くらいは、津山に来て下さい、衆議院中国ブロックの石村さんと一緒に・・」などの要望もだされました。その日の様子を写真でお届けします。

津山駅前の様子ですが、選挙中よりも、車からの手を振る人、クラクションの音などが多いのではないか、と思いましたが…期待どでしょうか。

★東新町・新天神橋交差点の訴え、ここでも、やはり手を振って走り去る車の運転手さんが多いと言う実感・・・

★高野国道53号交差点での訴え、ここでも、おもいもかけない人が手を振ってくれまして、学校帰りの子どもたちとも「握手」と言う場面もありました・・・

★冷たい「ソーメン」そして、よく冷えた「スイカ」に、フライや唐しつけ・やさいなどのおつまみ、粗食ではありましたが、良く飲んで、良く食べて、よくおしゃべりをして、楽しいひと時をすごしました、やはり、選挙で「勝てた」と言う喜びの余韻ですね、良かったです。少し残念なのは、党を大きくするお話が、都合で「延期」されたことですかね…。

8月5日→第27回津山市民平和祭オープニング

★1985年6月19日でしょうか、津山市議会で「核兵器廃絶平和都市宣言」が議決されました、当時、私=末永が市議会議長へ・・・日本共産党議員が議長へ、と「物議」を呼びましたが、それが縁で、平和都市宣言を行なうと言う機運が高まり、都市宣言がおこなわれ、平和予算というものを始めて作りだし、市民平和祭が行なわれるようになりました。

今年は、第27回目ですが、本当は、28回でなくてはいけません・・・最初の段階で「開催しない年」が起こりまして、とんでしまいました…継続は、しんどいです、でも、「力」です、この「空白の「1回が有る」と言う歴史が、しんどさと、継続の価値観をあらためて考えさせられるというものですね。

★木原実行委員長と宮地市長と私=末永です、めったに取れない写真ですね。第1回市民平和祭は、木原さんのお父さんが実行委員長でした、私が市議会議長として、木原さんと一緒になって「平和都市宣言」をもとめた市民団体へ呼び掛け、激論の中「5つの加盟団体の満場一致性で事をおこなう」と定め、行政に「年間100万円の平和予算」をつくってもらい、実現したものです。被爆二世の会・木原さん、実行委員会も、今、2世の時代へ引き継がれました。

司会は実行委員会の事務局がおこないます。

★木原実行委員長のあいさつ、そして、宮地市長・川端議長・田村教育長と「来賓挨拶」がおこなわれ、「平和のための戦争展」のオープニング・テープカット、で、開会式典が終了します。

★津山市と実行委員会では、市民のみなさんに、「戦争遺品」というものを「寄贈」して頂くように呼びかけています、毎年のように、すこしつづ市民の方が「遺品」をもちよってくれますが、ことしは、例年よりも「沢山集まった」とかみみにします、大切に「保存」して、また、「平和祭」で、遺品展に展示していくことになると思います。写真は、遺品展に見入る市民の方々です。

★この写真は「2年前の平和祭」の時の者です、参考に乗せておきます。