13日(土)ですが、今日からお盆

★昨年の8月10日、長い介護の生活ではありましたが、亡くなる直前まで「痛み・苦しみ」など全くなく、アレッ、と体調の変化にきがついて、約30分かな、1時間たらずで眠るように息を引き取った母・品代、96歳、「老衰」という診断でした、あれから、丁度1年、『初盆は昨年の盆か、今年の盆か」と色んな意見もありましたが、昨年も「一応のお盆」をして、今年が、どうやら「本物の初盆」になるとか・・・仏の道は分かりません、なによりも「宗派」によっての、かなりの違いがあるようですから・・・と、いうことで、今日、お墓とか仏様とかを綺麗にして、お花をあたらしくして、初盆を迎えます。お寺さんが午後くるそうです・・・。

川元品代(実母)と漠・ひろし(実父)が眠っている「川元のお墓」です、このお墓は一代かな・・・

末永泉(養父)知恵子(養母)や泉・品代の父・和田蔵とその妻・ふよ、そして、順四郎叔父とゆみ夫婦、泉や品代の祖父の利喜蔵・なみ夫婦らが眠る末永のお墓です。

★この利喜蔵が、天保3年6月7日生まれです。天保3年といえば1833年で、徳川12代将軍・家慶の時代です。

利喜蔵の息子たち、長男・順四郎は慶応3年12月8日生まれです。若くて亡くなり、弟の次男である和田蔵は明治4年生まれ、この人が末永の跡取になったようです、そして、泉や品代ら姉妹弟6人を生んでいます。

★利喜蔵の父親が、茂平という名前である所までのルーツが分かっているのですが、倉庫にある「墓石」は、この茂平のかなです・・・亡くなった月日や、その時の「苗字・名前」をどう刻んでいるか、が知りたいところです。

★慶応3年は1868年2なりますか、徳川最後の将軍・15代将軍、慶喜の時代で、慶応4年9月8日に「明治」となりますから・・・・

◎この二つの「時代」に、末永利喜蔵であり、末永順四郎でありえたのかどうか…身分制度の厳しい中、本当に、末永という苗字がありえるのか・・・墓石には「末永」と刻まれています…かなり、興味があり、歴史をひも解いてみたい、・・・だから、解読可能なと思える、かなり「風化している墓石」を、地下に埋めないで、倉庫に撮っていると言うことです。。。誰か、読んで下さい、解読してください。。。いつの時代に、どんな苗字で、名前で、誰が亡くなったのか…・しりたい限りです…

★二つお墓が、右(西側に末永)左(東側)に川元と並んでたてています、墓石です。もう、4年になりますか、養父・泉(実母・品代の弟)が亡くなった時に、泉の意思(金銭的な問題も含め)もあって、いわゆる「末永代々の墓」にしました、古い、ふるい、オはかでした、文字が消えて(風化)よめないものもふくめて、沢山の墓石がありましたが、地下にうめてしまい、一部、文字が判読できそうなものを、いま、倉庫に入れていますが、早く、読んでほしいとは思っていますが…そして、跡がどうなるかが、かなり「不明」ですが、大原町(現在の美作市)にありました、父のお骨を持ち帰って、品代と二人だけの「川元のお墓」を作って、末永の横に空いた訳です。

いつまで私ら夫婦が生きるか…長生きをしたいとおもいますが、私ら夫婦は、川元から末永へ「養子縁組」(苗字をかえる手法としての養子縁組)ですから、末永のお墓に「お骨」はいれるべきと思います…

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