6月27日(火)私の所属常任委員会はお休み

★今朝も曇りです、昨日、総務文教委員会がありまして、与えられた議案は少数でしたが、結構時間のかかった論議で、みんな熱心に向かい合ったという感じでした。今日は、産業委員会と建設水道委員会の審査日ですから、総務関係と厚生関係はお休みというところです。

★昨日の委員会、総務関係と教育関係、双方に関係する議案は、令和5年度津山市一般会計補正予算(第二次)です、歳入の主なものは、新型コロナ運留守感染症対応地方創生臨時交付金、基金取り崩しなど11億円強の歳入、総務では、

基金の取り崩し策と多少の経過措置と残金について質問をしまして、教育関係では、2千200万円程度の「給食費の値上げ」を抑える手立てなどを聞きました。この「物価高騰に伴う学校給食費の支援策について」ですが、保護者の給食費の負担を軽減するために、「給食物資に係る費用の高騰分を市が負担するという仕組みです。給食費算定委員会(学校給食会専門委員会)に置いて検討して、すべての学校長とPTA会長で組織する「学校給食運営委員会」で決定された施策という説明でした。

一食20円の「値上げ」になるので、給食費に影響しないように食材を購入するところ(食育センター)を支援する

★麺とかパン、牛乳などが想定する価格から値上げされたもの、服飾費が平均6、73%の値上げで、給食費の一食に試算すると「20円の値上げ」になるために、2つの食育センター(戸島と草加部)に直接補助するというものですから、少し「分からない部分有」でしたから

末永⇒誰にお金が渡されるのか、どこが受け取るのか。と聞きましたら、上記のような説明で、「職員センターへ支援金をだす」ということでした。   末永⇒仕組みはわかりましたが、直接保護者の給食費を「下げる措置」の方が、市民にはわかりやすい、間接的な支援策では、明確に見えないと思う、わからない支援策でなくて、わかる支援産駒を一工夫してほしかった。。。

こんな意見を申しました、「予算・施策のあり方」に反対するものでもありませんから、賛成をしました。

先週の金曜・土曜・日曜と、結局は美作水平社創立100年記念事業の段取りで終われてしまいました

7月8日(土)まで、残り2週間足らず、23日(金)~見ましても2週間しかありませんでした、記念集会の参加者に配る「当日の日程案内のレジメ」の印刷だけでも決行時間が足らない感じ、原稿がすべてそろわないままですが、印刷に掛ける原稿はと、やっと作り上げまして昨日の朝、印刷に回しました、委員会の資料の調査とか、委員会質問の準備などとてもとても、という感じの委員会審査でした。明日は、総務文教委員会はお休み」ですから、水平社記念式典の準備に集中というところです。、

水平社運動の継承を今に生かして

     豊かなまち・人つくり津山ネットワークの決意

 ★私の責任分、原稿の出費っという任務です。

※津山市内における水平社運動を継承する私たちは、全解連津山市協議会を、2002年5月に発展的に解消して、「豊かなまち・人つくり津山ネットワーク」として、部落解放運動にさよならをめざして、新しい時代へ扉を開くとして再構築した運動団体です。

思い起こしますと、1978年から、「同和問題を自由に語る市民懇談会」を年に20団体と行ってきました。 当時の「運動方針」から抜粋してみますと、

【暗中模索の運動の中で「部落問題を自由に話す会」へ

1980年になる前後、暗中模索の運動の中で、「部落問題を自由に話す会」「討論会」を無数の団体に呼びかけて開きました。公民館単位で沢山の人たちに討論をしていただきました。企業や行政や教育界の人たちとも、民主団体とも・・・・・。

多い年は、年に30数団体と話し合いをしてきました。全解連に組織改組・発展し、国民融合の方針を説明し、「いい方針です」と言われて、得意になっていました・・・・、が、どこかが「腑に落ちない」部分がありました、どうしても、腹のそこから「スッキリ」としない、もやもやが続いていきました。まさに、暗中模索と名づけた時代そのものでした。」

  との記録があります。そして、市民の方から「一言話すと、必ずあなた方は、10分程度は、あれこれと解説説明される、これで自由にと言われても、緊張する、言葉はだせない」という言葉をなげかけられました・・

組織の側は「黙って聞く」という集会として、1981年7月13日に、第1回「本音で語る、同和問題シンポジウム」を開催しました。

その中で「あなたたちは、組織の名を使って、行政の決まりでも、無理難題を押し通そうとする、そんなことではいけないのでは・・・」とか「確認会は、拷問であり、自分たちの思うとおりに押し通してしまう…」こんな意見に直面し、「黙って聞く」ということの苦しさ、しんどさを味わいながら、それとは違った、何かを見つけられる、見た、という心の温かさを感じ取ったものです、 そして、閉会と同時に、参加者から「あんたらは、とてつもないことをしでかした、これで新しい何かが生まれると確信する、がんばって・・・」と握手までしてくれる人も出ました。

このことに気を良くして、津山市では31年間本音シンポを継続し、5回目からは、当時の美作地域5郡(真庭郡・苫田郡・久米郡・英田郡・勝田郡)一帯へと広げ、さらに、〇〇年1月の広島県加計町をはじめとして、徳島県阿南市、和歌山県南部町、滋賀県甲西町、野洲町をはじめとして、千葉県から長野・愛知・京都・大阪・兵庫・香川・高知・山口・福岡・大分へと「津山からのレポート・本音シンポジウムから学ぶもの」と題する報告会を無数に開催してきました。

それぞれの地域での特徴と思い出は語りつくせませんが、大阪府浪速の「解放会館」(当時・解同の拠点事務所)での開催は、開催したということだけでも特筆すべきことではないかと今でも思っています。

「本音シンポジウム」の経過の中で、1984年政府の諮問機関である「地域改善対策協議会」(磯村会長)が、6月19日に答申をだし「同和問題も自由に語れる土壌づくりが肝要」との方向を基本とする「啓発活動の在り方」とした。この指針について、津山市での「本音シンポジウム」の資料が、地対協に届けられたことも特筆しておきます。

磯村答申の要約→・・・前略・・・むしろ啓発推進の前提ともいうべき条件が欠けていると考えられ、これを早急に整備する必要がある。
(ア) まず第一には、同和問題についての自由な意見交換ができる環境づくりを行うことである。これまで、同和問題に対する疑問や不信感を持ちながらも、意見が意見として受け取られにくい状況及び本問題を避けて通ろうとする向きがあったことから、同和問題に対する批判のみならず自由な発言や積極的な提案が公にされることなく、潜在化する傾向が指摘できる。

このような自由な意見交換が困難なままでは、啓発効果は期待できないのである。と指摘されたことは感無量という感じでした。

6月26日(月)市議会は常任委員会審査へ

★今朝は、小雨と曇り空、小雨が続くのかもです、いつのまにか「夏至」が過ぎてしまい、朝の夜明けが心持「遅い」という感じです、夏至はいつ頃?2023年の夏至はいつ?夏至は毎年決まっているわけではなく年ごとに異なり、今年は、6月21日の水曜日で、2024年の夏至は6月21日の金曜日です。ちなみに2023年6月21日の東京の日の出時刻は4時25分、日の入り時刻は19時です。この日の東京は14時間35分も日が出ていることになりますね。夜の時間は9時間25分なので、昼の長さが際立つ日です。ほとんどの都道府県で夏至の日の入り時刻は19時過ぎになるので、かなり遅くまで明るい一日になります。

夏至の意味や由来

夏至は「夏に至る」という言葉どおり、この日を過ぎると本格的な夏が始まると考えられている節目の日で、気温が上がってくる時期です。夏至には「日長きこと至る(きわまる)」という意味があります。また、夏至は古代中国で作られた暦である「二十四節季」の10番目にあたる日です。二十四節季とは、1年の日数や太陽の黄道上の位置によって24分割したもので、季節や気候に合わせた名前が付けられています。二十四節季のなかでも夏至・冬至・春分・秋分は「二至二分」と呼ばれており、季節の区切りの基準になる日として重視されてきました。二十四節季は現代でも農作業の目安として使われています。

 というのが、ネット上の一つの解説です。

★津山市議会は、今日から叙任委員会審査です、月曜日が、総務文教委員会・厚生委員会の2つです、そして、火曜日が、産業委員会と建設水道委員会の2つです、すいようびは「予備日」ということで、常任委員会が長引けば、この日に審査するという仕組みになっているようです。

議会活動そして、議員活動としての根幹がとわれる、「改革とは何か」ではないでしょうかね・・・

★8年前より変化している議会運営の在りよう」ということでしょうか、「改革・かいかく」と唱える今の議長室の人たちの「改革論の実践」なんでしょうか、?、誰の発案化は「わかりませんです」ね、しかし、新しさを=改革と称するとしたら、そうかもしれませんが、新しい在り方=改革、課、と言えば、決してそうではないと思えます、ことばだけ「かいかく」というて、何か、目新しいことをすれば、改革か、…では、絶対にありません、

★要は、形ではありません、見た目のやり方をかえるというのは、「議会改革」ではありません、単なる変化でしかないと思います。もちろん、「変化=改革」と称する場合もあるとは思いますが、「議会の改革」というのは、議会政治の根幹にかかわる部分、予算に賛成する」という見た目の議員の姿、、賛成を反対にする」ということではなくて、賛成の論議を通じて、其の賛成予算の持つ矛盾点、「反市民生活的な要素」を徹底して論議するということなどではないでしょうかね・・

★本会議質問を通じて、「○○をしてくれるように要望します」式手ではなくて、なぜできないのか、何が原因で出来ないのか、「国の政治の在り方や県の政治の在り方」とどうかかわっているのか、それで、本当に良いのか、と、正面から、わかるように当局と論戦していく、切磋琢磨していくこと、だと思います。

6月議会の特徴は、何か、?くらいは・・・

★1年に4回ある定例議会の中で、それでも、6月議会だけが、やや、提案される「案件」が少ないという特徴があります、補正予算」などは、本来、「無い」のが6月です、それは、3月当初予算で「基本的には一年間の必要な事業とか事務費とかは、予算化する」からです、突然、ふってわいたような事業がらみの補正予算が6月にていあん」というのは、よほど、何かがある、場合です。これが原理ですから・・

★もちろん、今年のように、市議会議員選挙があったり、市長選挙があったり、する場合は、多少の「例外」ということは起こるとは思いますが、

地方議会審議会でも、形にはこだわっていませんよ

〇議会の意思と住民の意思が乖離しないような努力が従前にも増して必要とされている。

○ 地方分権時代において、団体意思決定機関・監視機関としての機能の充実・強化が求 められている。

○ 議会のあり方については、議会の現状についての住民等の声や、先進的な議会改革の 取組事例を勘案しながら、議会における利害調整機能、議事機関としての政策形成機能、 監視機関としての機能の充実が図られるよう、その見直しを検討すべき時期に来ている。

○ 議会の自主性・自律性の拡大の観点から、議会の権限、長との関係など議会制度の基 本的事項については法律で定めることとし、その組織及び運営についてはできるだけ議 会の自主性・自律性にゆだねる方向で見直すことが必要であると考えられる。

○ それぞれの議会において、改革に取り組んでいる先進的な取組を参考にしつつ、現行 制度の積極的な活用や適切な運用を進めることによって、議会の一層の活性化やその果 たすべき役割と現状評価の間にあるギャップの解消を図り、議会の自己改革を進めてい くべきである

これは、平成17年の審査会の意見書です、

議会における利害調整機能、議事機関としての政策形成機能、 監視機関としての機能の充実が図られるよう、その見直しを検討すべき時期に来ている。

と基本の在り方が示されていますから、ここへ、むけて努力、それが「改革」だと言わなくては日いけません、形、姿を変えることだけに「しがみつく改革論」は止めるべきではないでしょうかね。

6月24日(土)美作水平社創立百年記念集会

今日は土曜日、朝から快晴の空、暑くなるのかも…昨日の午前中は、実行委員会、歴史物語・年表史誌にかかわってのスライド作成、何よりも受付で渡す、いわゆるレジメづくり、中々準備が進みませんですね、、時間がないのに、と、焦れば、あせるだけ「仕事が抜ける」という感じです、困ったことです。下の写真は、式典当日参加者に配布する予定の「レジメ」の表紙ですが、美作水平社創立の地・津山鶴山公園内の鶴山館の現在の姿です、100年前、「産声」を挙げたということです。

表紙

歴史検索の行事が2つ、スライドによる7歴史の紹介です、もう一つは、本音シンポにかかわる歴史を中心としての「パネラー討論」ということになります。4いずれもが、資料などの紹介と、県外と県内(津山市外)からの報告種を御願いしているところで、なかなか細かい段取りまで行き届かないのが、今の現状絵です、参加者も、まだ、把握ができていない状態ですか、ひとつ、一つ、前に向かなくてはです。

昨日の夕方からは、津山市民平和祭実行委員会

★7月31日をオープニングとして、津山市民平和祭りが開催されますが、其の実行委員会が昨日の午後6時からありまして、副実行委員長という立場での参加でした。おおむね、第1回実行委員会で相談していましたから、確認とか、相手との協議が出来たとか、チラシが出来たとか、各行事の丁寧な「確認が主な話し合い」ですが、項目が多いですから、結構時間がかかりますし、市民からの問い合わせなどへの対応も相談しておかないといけませんし、これも、簡単にはいきませんねです。

平和

★上記は、今年の各行事を「チラシ」です、各実行委員会加盟組織に必要な枚数、そして、書を鵜・中学校の生徒さんに配布する枚数などかなりの数を印刷です、6月末を目安に、各団体、各学校などへ配布されていきます、コロナの関係もありまして、3年ぶりに「予定される行事は、すべて復活」という今年の市民平和祭の行事です、7月31日・市役所ロビーで午前10時からおこなわれます、オープニング式典に、まず、ご参加くださいねです。

今日は、映画「ひまわり」の鑑賞です。

 そのジェット機は炎上しながら学校に墜ちた…。
実際の事件を元に今の日本に問う感動の意欲作!

あの悲惨な沖縄戦から生き延びた沖縄県民は、今度こそ戦争のない平和な時代をと一生懸命働いた。その矢先の1959年6月30日、突然、嘉手納基地から飛び立った米軍のジェット戦闘機が石川市(現うるま市)へ墜落し民家を押しつぶしながら、宮森小学校へ炎上しながら激突した。

住民6名、学童11人名の尊い命を一瞬に奪う大惨事となった。そこはまるで生き地獄の有様だった。沖縄戦で多くの命を失った県民にとって戦後の子ども達は正に沖縄の希望の星であった。遺族をはじめ県民の嘆き悲しみは尽きることはなく52年たった今日まで続いている。この映画はその遺族・被害者たちの証言を元に制作され、今や沖縄だけではない日本人全体が抱える基地・外交問題などに大きな疑問投げかける久々の社会派ドラマと言われています。

2月23日(金)市議会は今日は休日へ

★昨日は曇り、小雨、少し寒かったのかな、猫のタマが寒そうなスタイルしていましたが、今日も朝は曇り空ですが、1日中はどうかな・・

★津山市議会は、一般質問が終わりまして、質問者がやや少ないということで、5日間の予定が、4日間で終わったために、ということで、昨日は、5人の議員の質問でした。そして、今日がお休みとなった次第です。

★昨日の質問、今議会の一般質問・最後は、近藤吉一郎議員、太陽光建設にかかわる裁判問題を中心としての質問、追及、少し「テンションが上がりすぎ」かなと思われるほどの元気、市長の裁判、敗訴してもあれこれの理由をつけての「控訴しない」ことへの不思議さ、裁判の中の四徴症減のおかしさなどを「厳しく」質問、自分が訴えられた県もあり、その腹立ちもあってと思いますが、ともかく、元気な、勢いのある、元気すぎる質問でした。途中で、私が「やじ」で、「落ち着いて」だったか「気を付けて」だったか、を、飛ばしました・

太陽光発電工事をめぐる課題の整理を目指して、調査特別委員会ができるかどうか、?

★最後、特別委員会、必要なら100条委員会設置も要望をしまして、大変な論議でした、お疲れさんでした。本会議終了後、会派代表者会議、私は、委員外いいんですから、と、言いながら、2回目かな、3回かも参加しました。予算・決算特別委員会を新たに設置するかどうかの話し合い、最後に「議会運営委員会は、小数回派、一人の議員の考えが反映していない、そこで【決める】の葉良くない、議員会議とか、全員協議会とかで相談するとしても、もう、議会運営委員会で決まっているから、が、前提で論議するのはやめてほしい・・・」という意味の意見は述べさせてもらいましたということです。、

今日は、さくら会館なとで雑務多しです

★私の方は、今日は、ぃち日、美作水平社百年記念式典にかかわる雑務がたくさんありまして、ぃち日中、その整理に時間を取られそうです。何よりも、7月8日(土)に予定しています、100年記念式典の段取りです、大幅に遅れていますから、あわてての準備ということになりますが、ともかく、落ち着いて、ぬかりのない準備が一番です。

ビデオで美作水平社運動の100年の歴史、とりわけ、創立大会から、戦前の運動、球団闘争、そして、戦争・終戦、運動の再開へ…そして、特別措置法制定への動き、特別措置法の制定と運動の分裂、特別措置法化における「部落解放運動の特徴」と、法の「細切れ継続措置」への対応、゛子どもたちや孫たちに、同和という名の付く特別の地域を残さない運動」の提起、「本音で語る、同和問題シンポジウム」の開催、「特別の措置はいらないの運動」特別措置の終結へ…などなど、どうビデオで伝えられるか、頭の痛いところです。

20年前の模様押し、全解連を綴じて、豊かなまち、人つくり津山ネットワークへ発展させた思い出の記

★水平社創立から80年、私たちは「部落解放運動にさようなら」を決意しました、それは、子供たちや孫たちへ「同和」という名のつく特別の地域がある社会ではなく、普通の社会を残してやりたい」との運動のスローガンを実践する上での、「部落」と冠をした団体があることが矛盾を生んでいる、「いつまでも同和・部落ではない」とすれば、「部落を冠した団体」の責務は、その名をなくすること、運動の必要がない社会をつくる未来へのロマンであるからです。

 

そして-5月12日に新しい時代の扉をひらきました-豊かなまち・人つくり津山ネットワーク(通称 つやまネット)を立ち上げました。                         ★午後1時からベルフォーレ津山で「豊かなまち・人つくり津山ネットワーク」の立ち上げ集会が行われました。

写真は、旧全解連津山市協議会委員長として「開会挨拶と経過報告」を行う末永弘之、「私たちのいつまでも同和・部落でない世の中をめざした運動が、今、大学のキャンパスの中で『さくらヘルパー2級養成学園』を開講することになりました。ここまで私たちの運動がきました、・・・と訴えたときは、感無量、少し、涙ぐんだものでした・・・・

うした思い出が、うまく表現できるかなです。

★午後は、日本共産党津山市委員会の会議、津山市人権尊重の会の会議、夕方は、津山市民平和祭の会議へと連続して、いろんな会議へ参加という相変わらず、ばたばたとした日暮らしということになりそうです。

 

6月22日(木)一般質問最終日ですが、

昨日は、午後から、蒸せました、相変わらず曇り気味、夕方から小雨で、朝も小雨、今は止んでいますが、1日どうだろうな…、

★昨日の質問は、4人の議員さんが質問、当然のことですが、私の知らない「案件」もいくつか出てきましたし、新人議員さんが、昨日で全員が質問したということになります、質問の内容、有り方など「私が論じる」立場ではありませんが、案外、皆さん、言葉ははっきりしており、聞こえやすい、聞き取りが容易にできる口調だったのには、感心しました、という間かそうですね。

一般質問最終日の行方は、どうでしょうかね、

今日が、津山市議会一般質問最終日です、今日の5人で質問が終ります、最終の議員は、近藤吉一郎さんで、この「ブログ」でも紹介しましたが、初日、私はの質問に先立って行われた、「質問順序をめぐる、議長への要請」そして、正式な「議事進行の動議の提出」に当たり、提出者として名を連ねてくれた議員さん、質問の太陽光建設・裁判にかかわる問題」は、私も質問した課題でもあり、数人が質問し、今日も、秋久議員も聞かれるようで、どんな論議になるか、成り行きを見ることになりそうです。 

※政岡 大介 1.市長の政治姿勢について ①津山市の高齢者問題について ②物価高・電気代高騰による市民生活について ③津山市の観光について ④市長の裁判結果について ⑤津山市の財政運営について 市長・副市長・関係部長

※金田 稔久 1.第2次補正予算について ①民生費 ②衛生費 ③農林水産業費 ④商工費 ⑤土木費 他 2.市政の課題 これからの対応 ①2024年問題における物流・運輸 ②人口減少対策における問題対策・子育て ③農業対策 米・農地・人 ④その他 一問一答 市長・関係部長 市長・関係部長

※ 秋久 憲司 1.市長敗訴となった裁判結果について ①高額接待の記事の削除等を求めた訴訟の司法判断についての報告を 2.津山駅北口広場整備について ①1軒の用地買収が残ったままでの暫定的な供用開始から7年経過するが、対応は 3.3月議会質問項目、その後の市のとりくみは ①低周波音への対応 ②JR東津山駅駐輪場 ③バス停のベンチ等の整備などについて 一問一答 市長 市長・副市長・関係部長 市長・副市長・関係部長

※津本 辰己 1.人口減少対策 2.まちづくり対策 3.農林行政 市長・関係部長 市長・関係部長 市長・関係部長

※近藤吉一郎 1.市長の政治姿勢について ①田邑、一宮地区の太陽光建設にかかわる諸問題について

質問議員と、届け出ている質問の内容の一覧ですが、いくつか興味ある内容もありそうですね。

公開質問所に、議長と議会運営委員長から回答あり

★令和 5年 6月 2日に、私=末永弘之が、津山市議会議長 中島完一と  津山市議会議会運営委員会 委員長 政岡 哲弘 の二人にていしゅつしていました、津山市議会「役員構成に関する」公開質問状ついて、回答がありましたこと、書いておきます。内容は、失礼ですが、まだ、吟味していません、ざっと目を通して、うんうんと、うなったところです、また、コメントも含めてお知らせするときもあるとは思いますが、回答が来たということは、ぉ知らせとして書いておきますね。

★申し入れの内容は、

早速ですが、先に開催されました「5月臨時市議会」においての、正副議長選挙、各常任委員会正副委員長及び特別委員会などの正副委員長互選に当たっての貴職らの「行った行為」に対して、座長役をつとめた者の責任において、以下申し上げます数点について、全議員・市職員をはじめとしまして、市民の皆さんへ公開を前提とした「津山市議会役員構成に関する公開質問」をいたしますから「令和5年6月定例会議」終了時までに誠意ある回答をお願いします。なお、回答には、私の「コメント」をつけて公開することもありうることを付記しておきます。

  • 津山市議会役員選考にあたって、本会議に先だって行われました、会派代表者会議、全員協議会などでの、提案・決定をみました「議会構成に当たっての申し合わせ事項」を無視した選考を、貴職らの「多数派グループ」によって行ったのか、その理由を明らかにして下さい。
  • 申し合わせ事項の「基本の考え、あり方」は、市議会会派の人数による「正副委員長の比例配分方式」ですが、それは、全く無視してことを進めた理由を明らかにして下さい。
  • 貴職らが、主な「役職に就任」したと同時に、それまでかかげていました「改革」という会派を解散し、「未来」へ合流されましたが、このことから、「貴職らの言う改革とは、自分たちが役職に就くこと」を意味していたのかと疑える方法ですが、「改革」を口で唱える議員が、「正副議長、正副委員長」などになったら、「それが改革だ」と思われていますか明らかにして下さい。          などでした。

6月21日(水)朝は、ゴミ出しからです

今朝は曇り空です、昨日は、5人の質問者、午後3時頃に終わりまして、しんぶん赤旗にて配布しています、末永弘之の市議会報告・「ごきげんいかがですか」を作成しまして、誤字脱字を直していただく作業までしまして、今日、最終点検と印刷と配布の段取りです、週に一回、なかなか忙しいですね。でも、頑張らなくてはです。今朝は、水曜日で、我が家のごみ出しの日で、私の役割です、

昨日の「意見陳述」の継続です

★質問の順序をめぐる意見陳述、昨日の都筑で紹介ですが、正式な会議録ではありません、原稿です、が、実際手提案するときに、色んな個所を、きれいな言葉、省くべき個所」などは、省いた記憶、ですが「原稿」を書いておきます。

過去質問の順番が替えられた時の在り方は

私の半世紀の議員活動で、何回も、希望通りならない質問順番はありますが、必ず、其の時の議長室の人は、「順番が変わること、誰と、変わったか、其の理由」などを、事前に報告してくれていました。

今回の出来事は、全く、そんなことは、していません、問答無用で、6月12日午後3時に質問通告を正式に提出し、正式な連絡は、6月14日(水)16時13分に「タブレット」での全議員一斉通知という形で連絡があっただけです。タブレットによる質問順序の発表鑿でした。率直に「そんなものんなぁー、とのおどろき」と「悲しみ」です。

去の人との違いは、人としての心、人間としての「生きざま」の違いですから、私には、どうすることもできませんが、今回の「問答無用のやり方」は、全く、人としての「礼儀をわきまえない・知らない」が、自分たちの思い通りには出来る、上位下達(じょういかたつ)方式などは身に着けているいるという、すごい人たちだと言わなくてはいけません。

今回は、経過で説明したとおりですから、私以外は、だれも、1番を希望した議員はいなかった、と信じています。にも、かかわらず、議会運営委員長が、1番の質問者になっている、議会運営委員長は、議長から「委任される形」で、自分で、全体の質問者の順番を決める権限を持っている立場の人です。一番の質問希望が「末永以外にはいない」と、すれば、末永には1番での質問はさせたくないので、自分がやる、自分で決められる、と、なっていると思われます。

こんなやり方があるのか・・・・・容易に信じることができない事態です。

まさに、人間として、それこそ、「低レベルも、低レベルで、最低な話しだなと感じさせられる出来事」というものです。低レベルの論議と批判する人もありますが、それは、まさに、質問順序決める権限を持つ、「正副議長・及び、議会運営委員正副委員長」、貴方たちではありませんかと申しておきます。

 しかし、現実は、現実で、議会運営委員長が、1番の質問者として、決めてしまっていますから、これは、大変な事態です。

これは、いじめであり、「人としての人権を冒涜する手段」です、人権擁護委員会に提訴しても良いくらいの出来事です。

公正な議会運営でも、開かれた議会への改革でも、新しさでも絶対にありません、単に、言葉だけ、知ったかぶりで「良いことづくめを並べるだけ」のものです。

どのような経過で政岡あきひろ議員が一番になったのかなどを検証するために、本会議を中断してもらい、

  • 誰と誰が、1番質問を希望したのかを明確にする。

②政岡あきひろ議員の通告は、何番目を希望していたのかを明らかにする。

③二人しかいなかったとすれば、常識として、議会運営委員長が降りるのが当たり前。しかし、今回は、わざわざ、1番に名乗り出ているとしか思えない。

この調査を直ちにしてください。調査の結果次第によっては、1番と3番の質問順位を入れ替えてもらう、という措置を、今から必ずとってください、

 事の次第を「正しく検証できる」のは、議会運営委員会ではなく、今の津山市議会の組織で言いますと、会派代表者会議、あるいは、議員会議しか無いと信じますから、取り急ぎ、休憩にして、会派代表者会議を開いてください。

 ただし、正副議長と、議会運営委員会の正副委員長は、事件の直接関係者として、「排斥対象者」となりますから、会議には参加しない、できないということになりますから、事務局長か、委員会規定から考えますと、「その他、どの委員会にも属さない課題の検討ができる立場」である、総務文教委員長が、座長役で、ことを進めるべきだと申し上げます。

この意見を、「聞きました、聞いておきます」で、閉じようとしました…ので、待ってください、と、議事進行の動機提出へ、また、明日へです。

6月20日(火)沢山の傍聴ありがとうございました

★本会議一般質問初日、まずは、午前10時開会、その直前、多数の人が傍聴に来てくれまして、私の後援会・グループでない人も数人はいた感じですが、50人近くの人が傍聴に来てくださいました、ありがとうございました。しかも、開会と同時に、一般質問ではなくて、私=末永が、議長に「要望する」という「想定外の行動」をとりまして、一時間、「質問時間が遅れ」まして、私の質問が、最初の登壇質問がお昼まで、再質問からが、お昼過ぎへとなり、長い時間でしたから大変だったと思います。

まずは、議事進行についての意見陳述から始まりました

次席1

自席から、意見をの述べる私です。

津山市議会会議規則 51条(発言の通告及び順序)に基づいて、議事進行の意見を提案しますから、よろしくお願いします。から始まりました、長い1日の始まりでした。 何を主張したのか、と言いますと、質問の順序について、1番の質問権を持った政岡哲弘議員は、自分が質問順序決める権限を持つ人であり、其の人が一番をとるのは良くないのではないか、私=末永は、政岡哲弘議員には個人的に2回、全員協議会などで2回、合計4回は「いちばんしてほしい」と以来、お願いしてきた、にもかかわらず・・・という「無念の気持ち」も含めて、質問の順序入れ替えを訴えたわけです。

じせきい

★中島議長は、当然、条例上の「質問をきめる」と決められている人で、。政岡哲弘議員に、任せている議員ですから、私の意見を「聞いておきます」と、なにも手を打たないで、政岡哲弘議員の質問に入ろうとしましたから、

議長が、私の意見を、聞くだけの措置、としますと、規則に元ずく「議事運営に対する動議」の提出を行いました

(動議成立に必要な賛成者の数)市議会運営規則から

第16条 動議は,法又はこの規則において特別の規定がある場合を除くほか,他に2人以上の賛成者がなければ議題とすることができない

議長は、意見を聞いただけとなりますと、「何をしているのか分からない」ことになりますから、津山市議会運営委員会規則に基づいて、口頭による「議事運営についての動議」を提出しますから、規定に基づく措置をしてください。基準により、近藤吉一郎・正岡大介の二人の議員に、私=末永弘之の3人で動機を提出します、と、緊急動機を正式に提出としたところです。当然のこととして、休憩となりまして、議会運営委員会での論議に持ち込まれました。

動議は成立しましたが、本会議で、賛成者少数で、質問の順番を入れ替えるということは出来ませんでした。

★委員会での相談が終わり、私に個人的に「報告」のょうなことがあり、正副議長と正副議会運営委員会委員長と4人から報告を受け、本会議で、今決定している順序で運営する、とのまぁー、申し渡しのようなことがありまして、本会議で、動機について、賛成少数で否決となり、普通の議会運営になったということで、この間が、約一時間でした。

提案した議事進行の意見は、以下のような内容です。

※以下は正式な会議録ではありません、あくまでメモによるものです、

⇒まず、津山市議会の本会議における質問の順序は、市議会会議規則51条、3項において「発言の順序は議長が定める」と決められています。この規則を受けまして、長い慣習、言い伝えなどにより、質問通告を各議員が提出し、その際に、質問したい日時・希望する時を書き込んで提出します。

それを受けまして、議長室は、正副議長・議会運営委員会正副委員長の4人で、議員の希望日をもとにして協議、これは、密室会議のようになっており、その審議内容は誰もわかりません。が、ここで、発言順序が決められ、公開されるということになっています。

今議会における「質問通告を出すまでの経過」ですが

私は、8年ぶりの議会質問であり、様変わりしている「当局と議会の関係」などを聞いてみたい、津山の「政治は、どこかがおかしい」と言われる課題を、
学んでみたいとの思いで、1番に質問させてもらえないかな、1番で質問をしてみよう、との思いで、質問通告に「質問内容と合わせて、1番での質問希望」を書いて提出しました。

そして、単に、提出しただけでなく、それまでに、過去の議事録から、1番に質問している議員の名前を調べ、政岡哲弘議員、奇しくも、今回、質問の順位を決める権限を持つ立場になられ、見事に、6月定例議会での1番質問の権利を獲得されたわけです。その人に、今議会「末永が一番の質問をさせてもらいたいから、ご協力ください、よろしく」という挨拶をし、その他、1番に質問をされている経験のある議員の人たちにも、個人的に、今回だけは、私に1番での質問をやらせてほしいので、よろしくと、挨拶をしてきました。

さらに、別件で「議長と議会運営委員長に申し入れをした時」にも、私が1番に質問したいとの通告を出しますから、ご協力ください、とお願いをし、6月議会を前にした、会派代表者会議の席でも、議長をはじめとして、参加者のみなさんに「一番の質問へのご協力を」との旨お願いをしました。そして、6月12日に始まりました6月定例本会議の、全員協議会でも、改めて、お願いをしました。このお願いの直後から「質問通告」を各議員が正式に提出という流れになった訳です。

 次席2

このようにして、いわば、可能な限り、私は、礼儀は、尽くした行動をしたと考えています。たかが、質問の順番を決めるのに、何で、こんなことをするのか、それは、議員としてのモラルでもあり、議会らしい議会を作るための、市民に信頼される議会を作るために必要と思えるからです。

こうした1番での質問のお願いした経過が、聞き入れられなかった。

発言順位を決める権限を持つ、あなた方は、この議員としての当然のお願いしてきた経過を無視してしまったわけです。

質問の順位を自らが決められる権力を持った、政岡哲弘議員が、1番に質問をすると決めてしまったわけです。こうした、「卑劣なやり方」をされたことは、生涯忘れないだろうと思います。

 私を嫌ったり、私の言動を、鼻でせせら笑ったり、顎をしゃくりながら、悪口を言うのは自由です、しかし、心の中、内心だけの自由でなくてはなりません。今回のように、露骨に「表に出たら、おしまい」ですと申しておきます。

しかも、1番にしてほしいと、頼んだわけですが、1番になれない、いう理由とか、断りの言葉も、今だにない一言もありません。

それが、あなた方の言う「開かれた市議会の為の改革論」「公正民主の議会運営」を口で唱える人たちの、やる、礼儀ですかと聞いてみたいところです。

以下、まだまだ、続きかありますが、疲れた頭、今日は、ここまでとさせてくださいです。

6月19日(月)今日から質問戦ですが…

★土曜日、一昨日になりますか、朝から快晴、暑い1日でした、そして、昨日・日曜日で、美作大学の生徒さんをはじめとして「希望市」と名付けた日でした、コロナ禍の時代、異常な物価高の中、一定の「生活苦の学生さん」に日用品、食料などを無料で届けようというボランティア活動です。

「何でだろう」の「屈辱の質問戦」が幕開けの日

★6月定例会議、一般質問の始まる日です、屈辱の日とでもなずけたい思いです。3番目の質問とは、何だろう・・・1番が、政岡哲弘議員とは、何でだろう、彼は、質問の順番を決める人なんですが、私が「一番に質問する」というのが、何で嫌なんだろう、私の一番希望を「押しのけて」まで、発言順序を決める権限を持つ人が、1番の質問権を持つとは、これは、ぃったい、何だろう、なんでだろう・・

★私=末永は、政岡哲弘議員を含めて、6月議会が始まる前々から「礼儀を尽くして、私が一番に質問したいので、ご理解ください、ご協力を・・・よろしくお願いします」と数人の議員さんにお願いしてきました。

★正式な議会の「会議」では、2度お願いしました。そして、6月議会が開会されまして、正式な「発言通告手続き」をしなくてはいけませんから、「発言通告用紙」で、質問の課題と、1番質問希望を書いて提出しました、正式な手続きをしたということです。しかし、その願いは、見事に、「質問順序を決める権力を持つ人たちの力(中島議長・田口副議長・正岡哲弘議会運営委員長・三浦ひらく議会運営委員副委員長の4人です)でねじ伏せられました」です、・・・・・ねじ伏せた人たちは、さぞ、「してやったり」と、にこっと微笑んでいるのでしょうかね・・・ねじ伏せただけでなく、自分が一番の質問者として決めてしまったわけです。

質問順序決める絶対権限を持つ人が、一人の議員の希望をはねのけ、自分が一番の質問ができるでしょうか

★普通の人ならば、責任者というのは、人の順番を「かすめ取る」役ではなくて、質問者が「いない日時」に入って、責任を持つ、というのが、人としての生業だと思いますが、私の記憶では、少なくとも、政岡哲弘議員には、公式・非公式をふくめて4回は「私は、6月議会では、一番質問者に希望を出しますから、是非、ご協力ください、よろしくお願いします」と野旨をお願いをしてきたと思っていますが、この願いを「踏みにじって、自分が一番くじをとる」ということですから、何んとも言い難しというところです。

正式に「質問通告」を出したのは、6月12日(月)の午後です、そして、其の日の夕方には、正副議長と制服議会運営委員会委員長が「内々」で質問順序を決定し、時が流れまして、6月14日(水)午後4時過ぎに、タブレット連絡で、議員全員に「質問順序一覧」を送るというお知らせだけで、個人的な連絡は全くありませんでした。そんなものかにぁーです…

★これを読まれた、皆さん、どうでしょうか、わたしが「わがままを言うて、質問の順番を決める権限を持つ人たち4人を困らせた」のでしょうか、私が一番に質問する希望を出す日ことが、それほど「間違った要望」だったのでしょうか・・・まさに、「いかにとかせん」です。私を「嫌う」のは仕方ないことですが、公式な議員、議会運営ということになりますと、好きか嫌いかではなくて、まぁー、社会常識という運営をしてもらいたいものですが、私の考えが街勝っているのかもですね、、反省ならサルでもできるですか。反省。

日曜日・18日の美作大学生中心の希望市の様子

下のチラシを「美作大学社右辺の地域などに配布しまして、当日、午後3時から、議員として学生さんらのアンケート書き込みに合わせての相談の聞き取りを協力してください」の要請もあり参加しました。

希望市

市5

★スタッフへのお願いと注意からです。

市2

市3

市1

市4

参加者からアンケートを書いてもらいますが、私も、其の担当で、沖縄の人、愛媛の人、県内ですが、市外の人と合計14人の人と対話、アンケート記入、日本眠社製ね何同盟の説明など行いました。

★道路が暗い、怖い、という意見、要望でした、美作大学から、市役所前泥馬での間、宮川から西、衆楽公園の裏側付近一帯までの道路が暗い、明るくならないかの声、夜になると「怖い」という声でした、行政関係者の人、これ何か手を打つこと」を考えてくださいです、よろしくお願いします。

6月17日(土)いかにとやせん、?、

昨日は、朝「涼しさ」がありまして、曇りでしたが、午後予想が外れまして、晴れ熱いというか、蒸せるというかの日でした。今朝は、朝から快晴、日曜版を昨日、少し配布できなかったため、朝、配達、気持ちよい朝でした。

赤穂浪士物語、ではありませんね。

「風さそう花よりもなお我は

       また春の名残をいかにとやせん

1701年3月、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に切り掛かるという事件が起きました。浅野は即日切腹。掲出歌は辞世の歌。「風を誘って散る桜の花よりもなお急いで散ろうとしている私はこの春の心残りをどうしたらいいのだろうか」という意味です。作者の無念が美しく歌われています。きょうは赤穂浪士討ち入り…という有名な物語へと繋がっていくわけですが・・

★本会議の質問へ向けて、質問の内容への資料集め、意見聴取などいろいろとあるのは「普通のこと」かなとは思いますが、質問項目・課題を「まとめて」答弁の資料を用意してもらいますが、上記、浅野内匠頭の辞世の句のさいごだけ「いかにとかせん」の言葉を借りての悩みです、いくつかの課題を質問したいと通告しますから、それに関する「資料」など届けてはくれますが、例えば、一つだけの「資料が届かない」場合、さてさて、この「いかにとかせん」の悩みなんですね

★と、言いますのも、返事か来たところだけに、次の資料を求めて連絡してもよいのですが、「質問」という点では、人でも「資料が届かない」となれば、成り立ちませんから、「いかにとかせん」で、次のれんらくをしないで、ぜんたいを「待つ」という現象になります、こちらも、付に筆がすすまないわけですね、、こんな時、本当に「いかにとかせん」なんですね、。

★今回のように、土曜日・日曜日を挟んで、月曜日の質問となりますと、本当は、金曜日までに、きれいな質問ができあがるというのが本来だと思いますが、なかなかそうはならない、で、今日の土曜日を迎えたということになってしまいました。さてさて、私の質問は「いかにとかせん」ということになるわけです。昨日、午後、やっと「やや落ち着いた質問要旨」が作れまして、関係者に連絡を取りまして、明日の日曜も含めて、色々と模索するかなです。

いかにとやせん、は、いくつかありますね

★本会議質問の対策も内容もさることながら、質も問題で、「いかにとかせん、」「いかにとやせん」です。そして、昨日は、愛和荘に関係する「業務妨害裁判」の弁護士と本人の協議、打ち合わせもあったようですが、これも、いかにとかせん、ですし、昨日、夕方、別件で「市民からの悩み事」を弁護士に紹介するということをしましたが、これも、いかにとかせん、です、私の質問が「損番目へ」とは、これいかにで、いかにとかせん、ですし、「春の名残を・・・」という大前提は違いますが、あれも、これも、これからの事(春の名残とでも言いますかね)を本当にどうするのかです。難しいですね。

※風に乗って最後の華やぎを舞うことが出来る桜よりも、
    同じ春に散る我が身の方が、なお一層、今生への想い
    が残っている。この想いをどうしたらいいのだろうか。
と、吉良上野介のきらびやかな暮らし、これを春の名残としてとらえた。。。なかなかの詩人なんですね、さてさて、わが身はどうでしょうかね。

6月16日(金)あれっ!昨日の朝は、どうした?

★末永弘之の市議会だより「ごきげんいかがですか」を5月4日から作成をはじめまして、週に一回「木曜日発行」としていまして、数人の人にご協力してもらい、レイアウト・誤字脱字直し・水曜日には印刷してもらい、「しんぶん赤旗」のポスト卸と「大変な作業」を依頼していますが、そして、木曜日の「しんぶん赤旗・日刊紙」に入れてもらい配布が最初の市民のめにみられる配布です、そして、続いて日曜版へという流れで皆さんに届くというしかけなんですが・・

★昨日の朝、「しんぶん赤旗日刊紙」に入ってなかった、?、どこかで、突然変異が起こり、ストップ、故障したかなと心配です。日曜版が午後には卸のポストに入るとは思いますが、それに、うまく「ごきげん」も乗っかかっているかな、定期発行を絶対にと思う作成の側の思いですが。。。皆さんに「ご迷惑をかけて作成・印刷・配布」してもらっている身分、わがままは言えないというところです。結果としては、河辺の「ポスト」にだけ、何らかの理由で入ってなかったという感じでした、午前中の「美作水平社創立百年記念事業実行委員会」の人たちと話してわかりました。

ビデオ作製、集会当日のレジメづくりは急がないとです、

★昨日午前中かけまして、数人で「実行委員会」をしまして、ビデオ編纂の資料集め、写真集などの判別・区分け作業などいろいろですが、急がないと、送れるという感じもあり、集会当日配布予定の「レジメ」も送り気味ですから、実行委員会を二つに分けまして、「ビデオ作り班」と「レジメづくり班」ということにしました。

★上の写真は、津山市の本音で語る・人権・同和問題シンポじゅむの写真、下は、津山の教訓を、全地域に広げて、「21世紀を目指して、本音で語る・同和問題シンポジウムの写真です、当時、勝田郡・英田郡・久米郡・苫田郡・真庭郡の5郡で毎年行われてきました。

こんな歴史を「どう残せる、伝えられる」かな

私たちはなんとも思っていない、もう、無いのではないのか・・こんな意見によく出会いました。それにたいする対応も歴史の刻み、遍歴があります。

※20年前後((注)この年数は、ここに紹介する記事を書いた時からのことで、2023年から見て20年前という意味ではありません)までは、ないことはない、ないと言うならばそれならあんたの娘を嫁にくれるか、との問いかけで勝負ありでした。これで「差別は生きている」と、本当に「得意になって」解説し、生き生きとして「部落解放運動」の価値観を解いて、伏せていました

1970年代後半から80年代初期までは、

★具体的な「差別事象」を見出して、ちかくに見つからない場合は、全国の差別を、そして、10数年前の事件でも引っ張り出して、さも、もっともらしく「差別がある」ことを解いて伏せ、差別された歴史、悲しい歴史を、解いて聞かせてきました。同和対策審議会答申を学んでほしいと力説もしてきました。現に、゜幾つかの差別事象゛があり、ある、ということが一定の真実味をもっていた時代的な背景もありました。

 ★「もう何ともない」とか「差別はないと思う」「あなた達の゛ひがみ゛もあるのではないか」などの意見が出されると、とことん追求して「ないことはない、ある」と強調していたのが、それでも1970年代後半、80年代に入るころまでは続いた運動のあり方ではなかったでしょうか。

暗中模索の運動の中で「部落問題を自由にはなす会」へ

1980年になる前後、暗中模索の運動の中で、「部落問題を自由にはなす会」「討論会」を無数の団体に呼びかけて開きました。公民館単位で沢山の人たちに討論をしていただきました。企業や行政や教育界の人たちとも、民主団体とも・・・・・。

多い年は、年に30数団体と話し合いをしてきました。全解連に組織改組・発展し、国民融合の方針を説明し、「いい方針です」と言われて、得意になっていました・・・・、が、どこかが「腑に落ちない」部分がありました、どうしても、腹のそこから「スッキリ」としない、もやもやが続いていきました。まさに、暗中模索と名づけた時代そのものでした。

部落タブー・同和タブーが生じる要素は

 ★「自由に話してほしい」と対話懇談会を無数に開いていきましたが、その中で「一言質問や意見を言うと、30分は説明してくれる、結果として「叱られる」との感覚でしかない」との旨を、ある婦人から言われました。部落タブーの生まれる原因が、そのように言われる運動の側、私たちの側にある、と気づき始めていきます。たどり着いたのが、

1981年7月の-本音で語る-同和問題シンポジウム

 ★そして、「黙って聞く、市民の声に耳を傾ける」、そんな集会をよびかけたのが「本音シンポジウム」でした。このシンポジウムの積み重ねで、私たちが、変わりました、運動も随分と代わりました。

こうした運動の歴史は、単に、年表史誌だけではわからない、文章にしても、中々、うまく伝わらない…しかし、残しておきたい、津山の運動史誌でもありますが・・