7月8日(土)水平社運動から何を学ぶか

★今日が、約1年前から準備してきました、美作水平社創立100年記念事業の一つ、「記念式典」の日です、準備の前半は「歴史探索・市利用集め」と、歴史編纂医院の皆さんといろいろと検討してきました。まさか、市議会議員に立候補するようになるなどは、全く考えることすらしていなかった時期です。突然市議に立候補、何んとか当選させていただき、5月臨時会と6月定例会議、其の合間を縫ってかな、記念式典の準備しながら、其の合間を縫っての市議会かな、どちらでしょう・・

★なかなか思うようには調査もできない、資料も集まらない、各自治体の皆さんに「ご無理」をお願いしての資料探しもしていただきましたが、とくべつそちほうが「亡くなって」から20年というさいげつは「伊達ではない」感じ、資料の保存がなかなか・・・そして、市町村の合併で、一層、困難にというありようです・・・これから歴史資料も、当初から、たしょう「企画の変更」もありかなです。

水平社が創立されたころ、大正の時代は差別確認・糾弾」への激しい運動が繰り広げられています。

水平社運動の運動の中心は、「差別者への確認・球団闘争」であったと言われています、1927年昭和2年の事件・落合垂水神社⇒当時は宮司不在、地区の人を「氏子」と認めないという問題、もし、「氏子に認めるのなら、ワシらは、神様を自分の地域へ持って帰る」とまで話がもつれ、大きな差別確認会へと発展している。翌年には、地区の子供たち50人が「同盟休校」という戦術をとり、2年後に氏子になる」ということで決着している。

1930年(昭和5年)美保村厚生校差別事件、「トラホーム予防」と称して、地区の子供だけを「1か所に机をかためた」という事件、農民組合、労働組合、水平社とで「三角同盟」を作る一つの事始めかな・・そんな事件です。

戦争という「運動の中断の時期」はありますが、戦後の、人民解放同盟、解放委員会、解放同盟へと、繋いできた運動の時期も、「差別への直接的な怒り、確認・糾弾会」へと、大きなエネルギーが動いているようです、そして、国策樹立運動で、全国、主に西日本、九州すら、東京へ、徒歩行進を組織し、主な自治体を訪問しながら、登記用へ、国会へと、コクの責任を求めるだいうんどうが「国民運動」という名で繰り広げられています

★こうした課題、問題を、どのようにして、スライドで伝えられるか、とても、難しいところですね。

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