日別アーカイブ: 2023年1月7日

2023年1月7日(土)だんだん深刻な資料ですよ

★土曜日で、ゆっくりの朝です、雪や雨ではありませんが、曇り空ですが。昼からは晴れるのかもしれませんね。

今日は、いきなり「愛和荘物語」からです

★上と下で1枚の資料なんですが、例によりまして、上側が、縦と横とがきれいに映りません、悪しからずですが、報告日は、平成30年1月21日の「ある利用者」の「事故報告書」です。一般的には、施設に保存するため、県や津山市に報告するため、必要性があれば「本人か家族」に診てもらうために作成するものだと思います。

★事故報告なっていますから、一応「事故のあった時」は、としておきます、1月19日の20時30分と記録されています。「発生場所」の欄では、居室にチェックがありますが、「状況・対応」の欄では、「談話室」となっています、愛和荘は、こんな「違った書き方をする」のは、多いですね。車いすのまま「下を向いて眠っており」です、夜の7時40分に、談話室で「車いすで眠らせる」ものかな、?、そして、居室に誘導し、ベットに上げようとしたら、起こりだした、吐き、たたく、ので「再び談話室」へ様子を見たということです、こんなのありくかな、?、

23-1-7-上側

★20時30分車いすでウトウトされており、声掛けして、居室へ移動、ベットへ上げてオシメ交換しようとしたときに、また、急に唾を吐き、たたいたりしてきた抵抗されながらもオシメ交換し、横に身体を向いてもらったところ、位置が悪く、ベット柵に顔が当たり、タオルで冷やそうとするも、タオルを床に投げつける行為有。しばらく体動あり(ベットに起き上がろうとしたり、策より足を出したりしていた。)様子を見る、時々様子を見に行く、その時左手より出血の後あり、見ると、左前腕に皮膚剥離しているのを発見しガーゼ措置する。その後も体動あり、しばらくして休まれる。

との記載です、ベット交換で横向いたら、位置が悪くてベット柵に顔が当たるとは、?、ではないでしょうか。

23-1-7-下側

★【原因】の欄で、「ベット柵に顔が当たり、左前腕に表裏剥離したと思われる。やはり、?、ですよ、顔が「ベットに当たる」というのも、おかしい、そして、それが原因で、左前腕の皮が何で向けたりするのでしょうか‥‥オシメ交換で、顔がベットに当たる、と、言う酢、引っ付くことはありますが、傷になるほど「強く当たる」ことは無いでしょう、おかしなことですが、津山市も、岡山県も、愛和荘はもちろん、こんなのは虐待てか、不適切介護なんて、確認はしないのですから、だいじょうぶなんでしょうね、、変な話ではありませんか。そして、深刻なのは、コロナ感染もです。

岡山県 初のコロナ感染5千人超 5323人、11人死亡

★岡山県は6日、新型コロナウイルスに感染していた11人の死亡と、5323人の新規感染を発表した。1日当たりの感染者数は初めて5千人を超え、2日連続で過去最多を更新した。岡山市保健所2130人、倉敷市保健所1120人、県管轄の5保健所1586人など。と発表です、津山市が不明なのは、何回も書いていますが、やはり、良くないと思いますが、いろんな規制枠をキズ下政府の在り方」です。
★コロナ感染が少なくなり、ゼロに向かい、無くなる可能性が生まれるのであれば、「規制緩和」も仕方ないかもしれませんが、増えて、増えてるのに、規制を外して自由にするとは、これいかにです、怖いですよ、深刻ですよ。 

美作水平社100年の歩み、津山ネットの活動は、

★以下の紹介は、20年前、「同和対策という特別措置法」が無くなった時の様子を描いた「ごきげんの記事」です、これらのことょ、どのように「記念歴史誌」への個指定のか、津山の運動の大きな特徴ではあるんですが…

無題/今、思う事は、雑感・徒然日記

2002年4月に思い出すまま~11月へかけて思いつくままのコーナー

同和という線引き地域が法の上で無くなりました。

2002年3月末で「同和地区住民/線引きとしての地区」がなくなりました。部落解放運動の終結へ、津山の部落解放運動を綴じます、2002年5月12日に、新しい扉を開きます、市民集会の画面へ訪れてみてくださいね

2002年3月31日をもって「同和向け特別措置法を終了する」、まさに夢のような時期を直前にした。私が市議会議員になった時には「同和対策事業特別措置法」が制定された直後だったような記憶がある。それから30数年、いろんなことがありましたが、特別措置がある限り「差別はなくならない/部落差別は残る」とかたくなに訴え続け、「部落問題の解決へは、特別措置のない時代を絶対に一度は通らなくてはならない、だとすれば、一日も早く部落問題を解決させようとすれば、一日も早く終わらなくてはならない」との考えがあっての訴えであった

★写真は、全解連津山市協議会の教訓を美作地域5郡へ広げたシンポジウム風景
★同和対策の特別措置法は、「同和」という新しい言葉を作り出し、劣悪(実態には疑問がある言葉)といわれる「同和地区内」の環境を大きく作り変え、部落への偏見や差別をなくする役割を担ってきた


★ところが、今日、逆に多くの弊害を作り出した。


★それは、「特別措置にたよって生きていく人たち」(制度の利用だけでなく、゜差別するな゛の言葉で相手を黙らせることができると言う風土を利用して社会生活を、自分に有利に動かす層も含めて)を作り出し、「部落・同和」を背景にして「得意がって活きていく人間像」までを作り出してしまった。

一部「心無い人たちの行為」が全体を支配する 思いもしない現象であるが、今、こんな地区の人たちの存在が「差別を助長している」のである。まさに、差別が残っているのは、ここに残っているといえる社会現象ではないか?、もちろん、圧倒的な多くの地区の人たちは、こんな潮流とは関係なく、まじめに真剣に活きている。しかし、残念なことに、このまじめな人たちは社会的に「目立たない」存在である、もちろん、それが当然なことであるが。極一部の人たちの「社会悪」をモッタ人たちの生き様が、さも地区住民全体の生き様のように評価されるという不合理が強い「部落問題」でもある
だから、幾つかの矛盾があっても、徳ではなく損をしても、たとえ差別が幾分かあっても、特別措置をなくすることが寛容、部落差別解消の第1歩になる、そこを通らないと絶対に部落問題は解決しないと、本当に、真剣に全国にも、津山市内でも訴え続けて、30年近い歳月が流れた。


今、そこだけを自分に問いかければ「感無量」という心境だろうか・・・、しかし、これからが真剣勝負、特別措置法の「残骸」ともいうべき社会現象は、いわゆる部落への偏見・差別といわれる課題もあわせて、過渡的経過的措置として社会には残るであろうが、特別措置がないのが当たり前の時代へ数年たってから普通の社会になったときに、人として尊ばれる人間に、地域になれるのか、ここからが、私たちの新たな決意が必要なところではないだろうか。

★こんな思い出の記が、さて、どのように記念史誌として「表現」できるのか、年表史では書けないですよね、せいぜい、5月12日「記念集会」とかくていどになりますよね・・・ひと工夫が必要かなと思いますね。